こんにちは、Kayoです。私は大学2年生を終えたあと、アメリカ・シアトルに一年間インターンシップ留学に行きました。
インターンシップ留学とは、一年間の9ヶ月を学校で勉強し、最後の3ヶ月を企業でインターンシップするもの。留学エージェントが募集しているプログラムへ応募し、奨学金と私費でワシントン大学で学びました。
これから連載で「大学生のアメリカ留学のリアル」をお伝えします。アメリカに4年間留学する人もいますが、1年間という限られた期間だからこそ、日本人の学生目線で当時思ったことをわかりやすく伝えられるかと思います。
”リアル”をお伝えするので、決して毎日が「ハッピー!」な感じではありません。言葉や文化の障壁ゆえに思い悩んだこともたくさんあります。ちょっと恥ずかしいですが、今アメリカ留学を考えている人の背中を押せればと思いながら、正直に書いてゆきますね。
20歳、アメリカ・シアトル1年間留学記①田舎ムスメの夢ときっかけ
アメリカに留学したきっかけ
アメリカ留学にもいろんなやり方があります。そのなかでなぜ私がこの留学の方法を選んだのかを理解してから読んでもらう方がスムーズと思うので、少々長いですが最初に「きっかけ」をお伝えしていきますね。
原動力は「女性は家のなかにいればいい」
「ホーホケキョ」うぐいすの鳴き声で毎日めざめ、森のなかの赤い小学校で6年間同じクラスの仲間と遊び、下校途中の書道教室で泣くほどしごかれながらお習字をする。夜ごはんは3世代7人家族で獲れたてのお魚を食べ、8時には寝る。この暮らしを6年間続けてきた。
田舎のお楽しみはもっぱらテレビで、印象的だったのはテレビに外国人が出てくると、長崎で原爆を受けたじいちゃんが「この、ばかたれが」と日本人にやってくる外国人に悪態をつき、同じく年末年始などで海外へ行く日本人に取材する場面になると「アホは外国に行く」とぼやいていた。
ばあちゃんは、ばあちゃんで「女は家を守るのが務めだ」と言って、私が勉強することを禁止した。
毎日8時にベッドに入るルールだけど、土曜が休みの週(当時は月に2回、土曜日も学校だった)の前日だけはお父さんとお母さんと「金曜ロードショー」を観た。
引用:映画「ホームアローン」
「金曜ロードショー」にはフザけたアメリカ人がよく出ていた。そしてアメリカは細かいことに縛られず、子どもたちはあまり怒られることもなく、自由でそして刺激的だった。
「いつか、アメリカ人になってみたい」
小学生の私はこう夢みていた。
アメリカに行くのなんの、そんな問題じゃない
中学生になっても小学生の時のルーティンはあまり変わらなかった。部活に入ったらその分、お休みの日にお習字がなだれ込んだので土日はもっぱらお習字だった。家族で旅行に行った記憶もほとんどない。
勉強は好きだった。月に1回家に「進研ゼミ」の案内が届いていたので親に「やってみたい」とよく言ったが、「子どもはそんなの続かない」の一点張りだった。進研ゼミが続かなかった兄と姉を教訓にしていたようだ。末っ子の弊害と言ってよかろう。
引用:あこがれの「進研ゼミ・中学講座」
高校は偏差値55くらいの普通の学校に進学した。生まれて初めての電車で通学を始めた。
高校最初の模試の結果は学年4位だった。先生から高校入試の成績はトップだったと言われた。このとき私に衝撃が走った。
「アメリカ、行けるかもしれない」
なぜ成績が良かったこととアメリカが繋がったかというと、当時アメリカに行く方法が検討もつかなかった私はこうプランしたのだ。
「アメリカに行きたい」▶︎「でもアメリカってどうやって行くの?」▶︎「検討もつかないけど都会に行けば情報があるかも」▶︎都会の大学へ行けばいい!
と。元々は高校を出たらすぐ地元で就職するつもりだったから、”大学進学”はアメリカにつながる大きな切符だと考えた。当時はインターネットが普及しておらず、周りにも海外に行く人なんていなかったから、都会の大学に行って情報収集しなければと思った。
大学へ行くために猛勉強した。とはいえ3年間も猛勉強できないと思い、高校2年間は部活に打ち込んで書道の佐賀県代表になった。努力しない時間があっては怠けると思った。母は大学進学に理解があったので3年生からはZ会を始めさせてもらい、週に1回英語塾にも行かせてもらった。
クラスの先生が私が努力している姿を見て、国際ソロプチミストの奨学生に推薦してくれた。毎月1万円の奨学金は3年間で36万円となり、後のアメリカ留学資金になってラッキーだった。
夜に私が勉強していると ばあちゃんが「女が勉強するなんて贅沢」と言うので、卓上ライトを布団に持ち込み布団のなかで勉強した。目指すは都会にある国公立の大学だった。佐賀から近くて物価も安い、なにより都会の福岡がベストだった。
そしてなんとか九州大学に合格することができた。合格した時は、なんだかんだ言っていたばあちゃんも喜んだ。
大学ではアメリカの情報収集と資金稼ぎ
九州大学は実家から3時間の場所にあり、「実家から通えなくもない」距離だった。だが実家には「外国なんて大嫌い」なじいちゃんとばあちゃんがいて、アメリカへ行く準備がしづらかったので意地でも一人暮らしを主張した。
九大のクラスメートはみんな「塾の講師」をバイトにしていたが、私はとにかく大人と話して情報を得たかった。週6日時給860円で居酒屋のバイトをした。全個室の居酒屋だったから、私は掃除をしながら、酔っ払った大人が個室でこぼす情報を集めていった。
そんな感じで田舎者の私は知恵をつけていった。体力を切り売りしてお金を稼いでいたので、深夜にバイトから家に帰るとそのまま玄関で寝ていた。
その後バイトを3つ掛け持ちし、月に5万円ずつ貯金していった。食事は毎日野菜炒めと味噌汁とごはん。これが一番お金もかからず栄養があり、そしてうまかった。週に一回、野菜炒めに鶏むね肉を追加してぜいたくした。
情報収集のために友達もたくさん作った。学校へ行くバスに乗っている学生には自分から声をかけていった。街中で声をかけると危ない人に当たるかもしれないから、同じ学校に行くバスの中で友達を作るのがちょうどよかった。そんなある日、友達の一人から耳寄り情報が舞い込んだ!
「見て、佳代。こんな奨学金があるよ!」
パソコンの授業中にネットサーフィンしていた友達が画面を見せてきた。「インターンシップ・プログラム 留学生募集!」どうやら人材紹介会社のテンプ・スタッフ(今はPERSOL)がインターンシップ付き留学の費用を一部、学生に奨学金としているという↓↓
(実際のHPの2019年版)
引用:私が参加した「IBPグローバル留学」より
「これは応募するしかない!」
ということでその日に申請書を書いて応募し、翌月に大阪での選考に向かった。このときサークルを休み、初めて一人で新幹線に向かって大阪へ行った。これが生まれて初めての一人旅だった。
選考会場の関西大学へ行く道は、学校でプリントアウトした地図を基に行った。とても自分では行き方が分からなかったので、ローソンに入っては道を聞いてなんとかたどり着いた。関西大学付近で、午前中に面接を終えた友達とたこ焼きを食べた。
同じ九大の経済学部だった彼女は「面接では最近の経済ニュースで気になることを聞かれたよ〜」と言っていたので、面接の時間までパケホーダイのガラケーのニュース欄に載っていた経済ニュースを読んでいた。
面接ではみごとに「最近の経済ニュースで気になることは?」と聞かれ、準備していた答えを回答し、奨学金をゲットした。家に「奨学生に合格されました」の一通が届いた時はうれしくてうれしくて、一睡もできなかった。そんな夜は人生20年のなかで初めてだった。
こうやって私はアメリカ留学への切符をつかんだ。
国立大だと「交換留学」という選択肢があるが、なぜ交換留学にしなかったか、理由を話すと長くなるので今日はこれでおしまい。
まとめ
「アメリカ留学」といえど、そこにたどり着くのは容易ではなかった。とにかく周りに外国へ行く人がいなくて、「どうしたらいいか全く分からなかった」。今のようにインターネットも普及していない。
それでも映画の中のアメリカに一度でいいから行ってみたくて、目の前のことにひたすら打ち込んで行ったらチャンスが見えた。ここまでストイックにやる人も少ないだろうが、思い続けて行動すればなんとかなるものだと実感した。
写真:ワシントン大学に行った初日に写したサクラ。2011年3月21日
次回はアメリカ留学の準備についてお伝えする。留学にはあれやこれや手続きが必要だ。外国ギライの家族の説得や彼氏との関係もね。その辺のリアルをお伝えします。