思い悩んだ1年間のアメリカ留学。20歳の私にできた事を30歳で振り返る。

思い悩んだ1年間のアメリカ留学。20歳の私にできた事を30歳で振り返る。

昨晩から今朝の天気は雨だと言っていた。日本で冬に雨が降るのは珍しい。そんな日は早めにアラームをかける。

夜明け前の寒い日に雨の音を聞くと、シアトルを思い出す。1年間留学していたシアトルは、冬はいつも雨で登校前にコーヒーをテイクアウェイして体を温める。

今日は久々にそんなシアトルを思い出した。6時に起きて、エスプレッソを入れ、オートミールにシナモンをかけ、YouTubeで「Walk in Seattle」を見た。

アメリカ留学は懐かしいが、私にとって決して「楽しい・素敵な」経験だけではなかった。むしろ、自分の非力さを痛感じ自己嫌悪にさえ至った期間である。今日は私が20歳の留学でつまづいた事を、10年後の目線で振り返る。

 

思い悩んだ1年間のアメリカ留学。20歳の私にできた事を30歳で振り返る。

 

20歳、大学を休学して1年間シアトルへ留学。

私が20歳で日本の大学を休学して向かったのは、アメリカのシアトルにあるワシントン大学。ここで留学生を中心に、1年間ビジネスとインターンシップを学ぶプログラムに参加した。

18歳まで佐賀の田舎で育ち大学も福岡に進学した私は、高校で2週間イギリスに語学研修へ行ったものの、それ以外九州から出たことがなかった。

私が参加したシアトルの留学プログラムには、日本から学生・社会人約20人が参加していた。私以外のほぼ全員が東京か大阪の会社か大学に在籍しており、私は彼らと話すもその内容がよくわからなかった。九州にはないレストランや企業の話をされても全く話が通じず、ちょっと疎外感を感じた。

 

刺激的な最初の3ヶ月。ショックも楽しさも大きい。

初めてシアトルに着いた日、ホームステイ先のお母さんが迎えに来てくれた。彼女の車に乗って、ダウンタウン(街の中心部)を通って家まで行った。その道すがら、歩道にたくさんのホームレスがいることに気づいた。

1ブロックに1人いるホームレス。私は愕然とした。私の夢見ていたアメリカは、リーマンショック後のアメリカではなく、90年代映画の中の風景だったようだ。現実に打ちのめされた感覚だったが、すぐに始まる新学期のために私は準備をした。

留学は4学期制で、3ヶ月ずつ内容が変わった。最初の3ヶ月は見るもの全てが新しくて楽しかった。ホームステイ先の家族にも「今日はこんなのを見て、日本とは大違いだった」と感動を伝えていた。学校の授業は、毎回授業毎に受講生が違うのでそれも刺激的だった。

最初はほとんど話せなかった英語も、どんどん上達していき自分の成長を感じた。

 

4ヶ月頃から自分の成長を感じなくなった

ただ、3ヶ月がたった頃、シアトル生活にも慣れてきた。慣れは良い反面、自分で行動を起こさないと「何も刺激がない」ものだ。バスに乗るのも、街を歩くのも、英語を話すのにも感動しなくなった。

夏休みに一念発起して、鉄道でアメリカ横断したのは良い選択だった。シアトルの外は、まだ見ぬ世界がたくさんあったからだ。

20歳女ひとりアメリカ鉄道横断記。①2週間鉄道たびに出たきっかけ編

その後も両親がシアトルに遊びに来たりと、夏休み中はなんだかんだ気が紛れていた。

「刺激はなくなってきたけど、2学期が始まればまた楽しくなるさ」そう考えていた。

 

2学期から固定のクラスへ

2学期は3ヶ月間、同じクラスメートでほぼ毎日同じ先生の授業を受けるものだった。その内容は「ビジネス文書の書き方」や「プレゼンの仕方」など、正直日本の書店で売っている英語のビジネス本みたいなもので学べば十分に習得できるものだった。

先生もあまり授業がうまくなく、正直私たちのモチベは下がっていた。とはいえ単位を落とすと学生ビザが切れて日本に強制送還になるから毎日真面目に授業に出た。

学校でのモチベが下がると私生活にも伝播する。好奇心レーダーが落ちているので、ホームステイ先の家族とも話が弾まなくなってきた。

今思えば、この時”毎日真面目に授業に出る”だけでなく、単位は取れないけど聴講だけできる他の科目も取っていれば刺激になっていたと思う。その頃は「大学の授業を聞くことにお金がかかる」認識があまりなく、同時に時間が刻々と過ぎて行く認識もなかった。1年間プログラムを修了すれば、自分は変われる、と思っていた。

ただ当時は、他の授業も聴講できる、という事自体あまり知らなかった。なぜなら留学生と情報交換していなかったからだ。「英語力を高めたいから、日本から来た留学生とは極力話さない」姿勢をとっていたため、貴重な情報がシャットアウトされたのだ。意思が強いのも良いが、もう少し外部の声を聞く柔軟性があってよかったはずだ。

そんな感じで、2学期は記憶にも残らず、スーッと終わっていった。

 

3学期から本格的な授業へ

3学期は2学期とは大違いで、通常1〜2年かけて受講するMBAの授業を3ヶ月でエッセンスだけ学ぶという、結構ハードなものだった。受講生も2学期と全く違い、英語ペラペラな人が多くレベルが上がった。

内容も難しくなり、週末にグループで集まって話し合うなど、勉強に集中していた。この頃は「日本人の留学生と極力話さない」なんて考える間もなく、困った時は日本語で相談していた。

 

同時に4学期のインターンシップ先も探す。アメリカのインターンシップは日本のと違い、「長期・体験というより労働力・インターンシップなしで就職はなし」という、日本の教育実習みたいな位置付けだ。会社も通年でインターンを募集しており、私たちは会社のメールアドレスに直接レジュメ(履歴書)を送るという体当たり的なものだった。

留学生は結構落とされるものの、私はスモールビジネス(個人起業)のコンサルティング団体にいれてもらった。そんな感じで3学期はまた忙しくなったので、なんとなく充実した感はあった。

 

4学期のインターンシップで、また悩む

4学期目は週に4日インターンシップ、週に1日学校というペースだった。学校の授業も、インターンのお世話係の先生に報告するくらいで授業はなかった。

私がインターンシップをしたコンサルティング団体は非営利で、コンサルをする人は定年退職した経験人たち。コンサルを受けるのは、個人で事業を立ち上げたいと思っている一般の人。無料でコンサルしてもらえるので、「起業を考え始めたばかり」と言うクライアントも珍しくなかった。

そこで私は受付事務を行った。一緒に働くのは若いボスの女性、アリー。2人だけの空間だった。受付事務だから、英語力を鍛えることはできた。電話でアポを確認するのも緊張したけど何とかできた。

しかし、これまた慣れてくると「他にできることはないか」と考え始める。たまにコンサルのセッションに同席させてもらう事があった。ただその時は”学生は傍聴”すべきと、遠慮していた。今思えばただ”傍聴”するだけでなく、自分の意見も言ってよかったかも。

インターンシップは朝の8時から16時で終わり、空いた時間も結構あった。その間私はランニングしたり、買い物したりしていた。冬のシアトルは寒くて雨がよく降るので、昼から寝ていた日もある。そんな時私は「自分にできることはないのだろうか」とモンモンとしていた。

シアトルに到着した日に見たホームレス。1年間でその数が減ることはなかった。私に何ができるのかわからず、自分の無力さを感じていた。日本にいる時はアルバイトをしていて、どこかで自分が欲されていると言うのが、自己肯定に繋がっていた気がする。でも今のインターンシップは、別に私がいてもいなくてもボスの業務量は変わらない。

私の価値とはなんだ・・・と考え込んでしまった。

 

今振り返ると、自分が充実していた時というのは「自分が成長しているか、社会の役に立っている」時だったと思う。それは社会人でも言える事だ。会社で「上司の指示通りに単純作業をこなす。上司から叱責される一方、責任は取らなくていい」時は、心持ちは軽いはずなのになぜか自己否定に陥っていた。

一方で「自分が仕事をしないとプロジェクトが進まない、責任は自分にある」時は、忙しいけど充実した感覚を覚える。(忙しすぎるとバーンアウトしちゃうから、緩急つけるのは大事)それに一時期働かずに海外を放浪していた時期もあったけど、毎日が新しい発見の連続で「自分が成長している」感があって充実していた。

 

アメリカ留学の苦悩

アメリカではこれまでのように言葉が通じず、慣習も通じず、相手が何を欲しているかよくわからず、自分の無力感が一番の悩みだった。

振り返れば、意味があるかわからなくてもボランティアに参加すればよかったと思う。例えばホームレスにホットドッグを配るボランティアもあった。でも私は「これをしたところで根本的な解決にならない」とパスしていた。

人を助けることは、その人のためならず、自分のためでもある。解決はできないかもしれないが、自分にできる事を行うことが何もしないよりいい。

社会人も経験して、ようやくその結論に至った。

 

これから何かに挑戦して挫折した時に、頭の中で先に結果を考えて「する・しない」判断するのでなく、時間と余裕があるなら「気になったらやってみる」姿勢でいよう。失敗してもいい。ただ時間が過ぎていくより、あとで振り返ると何倍も”いい経験だった”と思えるはずだから。

降り止んだ空を窓越しに見ながら、私はそう思った。